アメリカに新しい製鉄所を──日本製鉄の決断に思うこと
最近、ニュースで「日本製鉄がアメリカに新しい製鉄所を建設する計画がある」と知りました。
その報道を見て、あれ、これってとても大きな話なのでは?と、胸の中が少しざわつきました。
というのも、日本製鉄が製鉄所を新設するのは、1971年の大分製鉄所以来とのこと。
50年以上ぶりという節目の決断は、鉄と火の歴史に新しい1ページを刻むものになるのだと思います。
しかもその舞台がアメリカ。
日本の企業が、国を超えてインフラの根幹に関わるような動きをするとき、そこにはたいてい、ただの経済合理性を超えた意味があるような気がします。
もちろん、世界的な需要の高まりや、米国内での製鋼需要を背景にした経営判断であるのは間違いないのでしょう。
でも、そこにはきっと、「技術」と「信頼」を根っこにした、日本製鉄らしい哲学があるのではないでしょうか。
今回の計画では、米国政府との合意のもと「ゴールデンシェア」が設けられたり、取締役の過半数を米国市民が担うといった、安全保障やガバナンスへの配慮もされています。
そうしたルールの中で、日本企業が現地の期待と信頼を得ながら、新しいものづくりの場を築こうとしている。
その姿勢には、どこか凛とした佇まいを感じてしまいました。
ふと、遠い昔に社会の授業で見た「製鉄所の煙突」の写真を思い出しました。
あれはたしか、大分製鉄所だったはずです。
時代の熱気がもくもくと立ち昇っているような、そんな風景でした。
それから何十年も経ち、環境への配慮やデジタル制御技術の発展によって、製鉄の現場も大きく変わったのでしょう。
それでも、鉄をつくるという行為には、どこか原始的な力強さがあります。
わたしたちの暮らしの「骨格」を担うものづくり──それは、目に見えないけれど、確実に世界を支えている。
今回のニュースから、そんなことを考えてしまいました。
技術と信頼を積み重ねていくことは、簡単なことではありません。
だからこそ、50年以上ぶりの「新設」という響きが、これほど心に残るのかもしれませんね。